感想:ぼくのメジャースプーン / 辻村 深月

  • 2012/03/02(金) 22:00:48

読んだ人からおすすめされて、借りて読みました。



ぼくのメジャースプーン / 辻村 深月


あなたは裁判官です。
純粋な悪意の塊のような存在を望むままに罰することができます。

さあ、いかように料理しましょう。


そんなテーマで語り明かす、ぼくと先生の一週間。




貸してくださった方への返礼として、感想を記載します。

まだ読んで数日なので無意味に長いです。あまりまとまっていません。

ネタバレありです。
感想と言うより解釈という部分もあります。

これはミステリ仕立ての本であり、下で出てくるネタバレの一部は未読の方の
楽しみを致命的に奪う内容となっています。よって、

これより下の閲覧は、

読んだことのない方にはおすすめしません。


大丈夫という方はお進みください。



・ぼくの選択について(1)

心に深く残ったのは、『ぼく』の結論として、犯人とは完全に会話しないという
選択をしたこと。

改心させようとすることは無理だと先生は最初から言います。
ぼくは「犯人が反省しているか」にこだわります。
こだわって、こだわって。
そいつの心を知りたい、理解したい。
親に隠れてでもメディアから情報収集する。彼を解釈する様々な言葉に必死で
耳を傾ける。彼の内面について手元にある情報で徹底的に議論する。推測する。
考え尽くす。

でも、対話はなかった。
力を使用して無理矢理確かめることはした。
リトマス試験紙を濡らすように、正か負かの、反応の観測は行った。
けれど、ぼくもやはり、解り合おうとは一切しなかった。

その結論が正しいことを――この言葉が暴力的であるなら、合理的なことと
言い換えますが――私たちは知っています。

私たちはもう知っている。
世の中には確かに、どうしようもない悪意の塊があること。
何もかもただ無造作に壊せる存在があること。

その存在に、更正なんて、反省なんて、ほぼありえないこと。
それを他人が「させる」ことの壁の高さは、見た感じ不可能に近く、実感として
徒労としか思えない。

だって彼は「悪意」だから。

‥ってわけじゃ、ない。

だって彼は「他人」だから。

これがたぶん核心。

誰もが現実を消費する。
他人のことを理解できる、きっと何か変えられる、というファンタジーをうち捨てて、
ただ自分の幸福として誰かを愛し、ただ自分の満足として誰かを攻撃する。

ぼくも、先生も、犯人も、その他大勢も。

 + + +

現実の理解は自分のために必要だが、純粋悪とは接する必要もないし、
自分のために他人を変えさせる努力は無為に近い、という主人公たちの結論は、
心の深くをぎゅっと押さえられたような感覚を私の中に生みました。

「自分」と「他人」の隔絶の強烈さ。

先生は言葉を尽くして説明します。
他人を変えようと思うことは現実的でないと。その実感の深さがひたすらリアルで。

日本語に身内という言葉があります。
でもそれはもう、消失してしまっているのかもしれません。

自分の体の内側にいるかのような他人。
そんなもの、自分の主観で作り上げた他人の幻、鏡に映った像。

遠くない過去の時代、それを無責任に信じることが主流だったのではないかと
今を生きる私は想像しています。
「あなたと同じ苦しみを持っている人がいるんですよ」
という言葉が、
「他の人は関係ないでしょう、今は私の話をしてください」
ではなく、
「そうなんですか、そう思うと心が楽になります」
と受け止められた時代。
自分の中の他人に感情移入でき、自分と置き換えてみたりできた。愛は与える
もので、誰かのためが無条件に正しかった。

まだ小学四年生の少年が声を上げて泣きます。
ふみちゃんが好きなんじゃない、自分のためなんだ。
大学教授が殺した声で叫びます。
自分の都合で、自分のエゴで、それを愛と呼んで何が悪い。

せんせい、人は絶対、誰かのために泣けないって本当ですか。
自分がかわいそうで泣くんだって。

残念ながら私たちはもう、松岡修造みたいなごり押しを、無根拠な信頼と自信を、
身の裡の他者に抱くことができない。


・ぼくの選択について(2)

ぼくが一週間の授業の末に行き着いた、回答。
犯人へ与える言葉は、私にとって大変納得のいくものでした。

それは犯人への働きかけであると同時に、もうひとつ、先生を動かすための
賭のベットでもありました。子供であることを利用したとぼくは自分で言って
いますが、自分の出した賭け金のインパクトの強さをふまえた、「有り」の線、
GO/No-GO の判断の、ぎりぎり「GO」の決断を許せるラインだと思います。

読んでいる間、一緒に自分ならどんな言葉を選ぶかぼんやり考えていました。
できないだろうけど、きっと自分だったらこう考えてしまいそう、というあたり。
ぼくの答はそれにとても近く、そのため驚きはありませんでした。

この『ぼく』が、たとえば虐殺器官の『ぼく』のように、誰も大切な人が残って
いなかったら、それが間違いだと気付く必要もなかったかもしれない。



DSの中に恋人を作って一緒に生活できるゲームの「ラブプラス」とのコラボ。
ゲーム内彼女と“一緒に”同じ本を読むことができ、感想を言い合ったりするそうな。
彼女の方が先に読み進んじゃったりもするらしい。
(私は3時間で一気読みしてしまったので彼女の方を置き去りにしちゃうかな)

すごく巧い企画だと思う。やるなぁ。
それがきっかけでたくさんの人に読んでもらえれば大成功だね。


・ラストについて [再度注意!重要なネタバレあり]

よかったね、と思う。よかったなぁ。

それが作者という神様が用意したご都合主義でもいい。
本当に、よかったね、と言ってあげたくなる。

ものすごくぎりぎりの薄氷の上を主人公たちは歩いています。

単純に言えば、最後、ぼくは死んでしまったかもしれないし、そもそも、力の
ことがなければ、ここまで深く内省を繰り返すカウンセリングがたった一週間で
可能だったかも判らない。

何より、一番最初にぼくがふみちゃんに力を使っていなかったという事実。
この危うさは筆舌に尽くしがたいです。

(太字強調を使わない、反応が違う、といったところから、終盤が近くなると
二年生の時には声を使っていないのだろうということが読者には判るようになって
います)

ぼくがふみちゃんを支えようとした三ヶ月の間、あらゆる瞬間でふみちゃんの
お母さんは、ぼくに、そのエピソードを伝えてもおかしくなかった状況です。
十分な情報があれば、ぼくは必ず事実に気付きます。
それはつまり、ぼくがふみちゃんに回復のための力の行使を
行わずにいられないだろうということです。力でふみちゃんを治そうとして
しまったら。
その想像はとても怖い。
二人の関係か、ふみちゃんの精神か、またはその両方が壊れてしまったこと
でしょう。

少なくとも、言葉が出るまでにふみちゃんが回復するまで、ぼくが自分には
できないと思い込んでこれたこと、そして、本当はぼくの力ではなく、ぼくの心が
ふみちゃんを動かせたのだという事実は、奇跡のように尊く思えます。

その偶然の重なり。

よかったね、と心から思う。




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力と罪と罰と

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この記事に対するコメント

Tessy

力を持つ者だけが選択できる責任を問われない絶対的な力でしたね
その分、自分の裁量で使うには主人公は若すぎて重過ぎる選択だったと思います。
この前作品の「子供たちは夜と遊ぶ」、後継作に当たる「名前探しの放課後」
どちらも秀逸ですので、是非読んでまた感想を書いていただけることに期待してます。

  • 投稿者: -
  • URL
  • 2012/03/12(月) 17:53:35
  • [編集]

コメントありがとうございます

Tessy様(お名前でよろしいですよね)
コメントをいただき、本当にありがとうございます。

> その分、自分の裁量で使うには主人公は若すぎて重過ぎる選択だったと思います。

本当ですね…。
辻村氏の描かれる登場人物は皆、頭が良すぎて、そのぐらいの負荷を背負わせてこそ
物語が成立する的なところがあり不憫に思います(笑)

昨日と本日で「冷たい校舎の時は止まる」「凍りのくじら」「名前探しの放課後」を
読み終わりました。手元にはあと「ロードムービー」がありますが、「子供たちは夜と
遊ぶ」を読んでからの方がいいような、もっというと発刊年順に読むべきだったと
いう気がしていまして、「ロードムービー」は後に回そうかと思っています。
「夜と遊ぶ」が手に取れるのはおそらく来週末なので、感想を掲載するにはしばらく
かかりそうですが、もし思い出していただけたら月末当たりにまたお越しいただけると
嬉しいです。(でもこんなに解釈的な感想書く気はなかったんですよー)

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